昭和三十九年十一月二十二日 朝の御理解


 現実の問題を通して神様の心の奥の方を判らしてもらうような            信心をさせて頂きたい。                            

昨夜のご祈念で、田主丸の田代さんがお参りしておられました。
今日は二十二日は田主丸地区の共励会なんです。それに合わせて、今度お店がきれいに改造になりましてね、そのお礼いの報告祭を一緒に仕えて頂きたい、と言うことです。もう、店が綺麗になってから、何~月なるでしょうか。店がきれいになってから、すぐにでもお礼のお祭りをして頂きたい、して頂きたいと言う事でしたけれど も延び延びになってから今日になったわけですね。まあ、いろいろな事情があった訳なんです。問題は、本当にお祭を仕えようと言う実感がなかった、と言う事が事実でしょう、とは思いよったけど、なんとはなしに一日経ち、二日経ち、三日経ちしている内にです、段々そのお礼のお祭りして頂こうと言う気持ちが、薄くなったと言うのが事実ですね。
そして、何ケ月、私も、その後その事をあんまり気にしなくなって、また、今のお祭り仕えてくれてたけど、とても、私は、その実感がでないと、私は思いよったです。お店の改造がすんだ、綺麗になった、もう、そして、早速、まあ言うならば、誰でもあんまり見散らかさん先に、親先生に来て頂いてから、お祭を仕えて頂きたいと。でなからなければ、神様、一つも迫力もなからなければ、実感もない。だから、もうなさらんのだろうと、こう思およったら、最近はそのお祭を仕えて頂きたいと、こう言うことです。けれども、私の今の心の中にその実の実感がないのですから。
そのお届けがある時に申しました。こりゃ田代さん、私はその、今度のお祭の事については、本当にお礼のお祭りが出来る為に、私も修行するけん、あーたも一つ修行なさらねばいかんですばい。
折角お祭を、いわば、たくさんの費用をかけるわけですからね。
お祭りを仕えると言うことは、それで、あの、ただお祭を仕え頂いたと言うだけ、気分が済んだというようなことではいかんと。仕えたら、仕えたがたあったと、いわば、あのお祭を境にこげなおかげ頂くようになった、と言うぐらいなおかげ頂かな、私は、お祭つかえようごとなかち。私、私もその修行させて頂くから、あーたも、そのつもりで修行なさらないかんですよと言うて、まあー、ささやかながら、その修行をさして頂くようになりまして、私の心の中にですね。
いよいよ二十二日は、その報告のお祭をさしてもらおう、報告のお祭をさして頂こうと言う。何て言うですかね、その、気分が出てきたんですよと言うように、田代さんがお参りしてきて見えてからですもん、ほんと、先生からあー言って頂いてから、もう、ささやかながら、田代さんとしても修行があったんでしょう。もう、昨日なんかは、先生、丁度二日分の売上がございました。もう、明日は、一日朝から休みましても、だから、ようもう元はとっとります、と言うわけなんだすね。
私は、あのお祭を境に、お祭りを仕えさせて頂いたら、お店の上にもこう言うようなおかげを頂いた、頂いていきよりますよと言うどころかもう、その、先日から神様のそうした働きを頂いて行きよると言う感じです。だから、信心ばかりは、形ぢゃいかんですね、中身です。
昨日、遠方、いさり市と言う所があります。そちらのご信者さん、私がご本部参拝すると、あちらの方、ご本部の方へお見えになられます。そして、夜お礼を言われたり、難儀な問題のお取り次ぎを願われたり、または、いつもお手紙でお願いがある方なんです。
もう、本当に大変な難儀所を通っておられるわけなんです。昨日、手紙がまいりましたからね、又、その大変な難儀な事が起こっているわけなんです。ところが、先月ですたいね、ご本部参拝の折りに、こ、親先生から懇々とご理解を頂いたそのご理解が、私の心の中に生きておるとね、とても、どうしたこっちゃろかと思うような事が起こっておるんですけど、こう言うような事情になりましたけれども、あの時のご理解が私の心の中に生き生きとして、何かしらんけれど有り難いおかげを頂いております、と。その事のお礼の手紙です。その事のお願いではなくて、その事のお礼の手紙が来とります。私は、あの時に、その事もここに書いてありますけど、あの時、親先生から頂きましたご理解の中に、「〇〇さん、いきよいをもって出る水も、水そのものに変わりはないけれども、本当に、実際掘って出る水の方が、夏は冷たい、冬は温かいという風で、その水そのものは変わらなくても有り難いと、もう、掘るほど良い味わいの良い水が出てくるのだからと言う、その御理解だったち。今度のこの難儀な問題ですち。
また、私の心の上に、又いくらか掘り下げることが出けて、良い水が出るだろうと思うて、その方が楽しみだと言うような事が書いてある。私、その教えを頂いて、その教えがですね、その例えば、親先生があー仰って頂いたから、例えば田代さんの場合でもそうです、にんど休む所ぢゃないと言う気持ちで、その修行される。そこから難儀に直面した時ですたい、それがむしろ楽しいような気持ちすら心の中に頂けておる。
人間の心と言うものは、もう本当に不思議なごとあるですね。
この方の道は話しを聞いて助かるところだから、話を聞いて自分の心が救われるとか、助かるとかいうけれども、例えば、その心の助かりというものが、私はもうおかげにつながらなければほんなもんぢゃないと思う。
昨日は、私はある教会のご信者さんから、こんな事聞いた。もう、金光様のご信心は、あの天地書付以外にゃなかと。
生神金光大神 天地金乃神 一心に願え おかげは和賀心にあり と、こう、もうそれを毎日毎日自分の心の中に、もう、和らぎ賀こぶ心を頂きますように、とお願いさして頂いて、もう金光様のご信心はこれだけだと、こう。その後に家族の難儀な話をされるんですここはこうするんぢゃないです、だれがどう言うてから腹が立つたとか、嫁がこうだから現在難儀だとか、夫婦のいろんな問題の話を、もうほんにようそんなに、まあー話をしながら、今そんなに難儀な事を、もう話をされるとぢゃあると、教えと言うものが空覚えに覚えておられるけれども、自分のものになっていないと言う感じがしますね。どのよううな場合でも、やはり、和らぎ賀こぶ心の中にあると言うものでなからにゃ、私、ほんなこつぢゃないと思う。
その田代さんのお話でも、いま私、手紙の事から申します事からでもです、本当に自分の心の中が、それによって助かっておると言う事。本当にその事によっておかげが続いているという事。話を聞いて助かると言うのは、そう言うような助かり方ぢゃないといかんと思う。
昨夜、ご理解を頂き終わってから、もう下がると言う前に、古賀さんがお届けに出て見えました。ここ二、三日歯がこう、歯が空いてから二、三日休んでおられます。ほんで、私が古賀さんに申しました。古賀さん、あなた方親子がね、これからまた、その店を出さにゃならん、今しっかり素振が出けよる時ですけんねと申しました。もう先生、それどころぢゃございませんと言う顔で下がられるんです。
こりゃ古賀さん達親子だけぢゃございません、皆さんが、例えばです、どう言う難儀であっもです、それがこれから店を開くとするならばですよ、その店を開くには元手がいるのです。古賀先生達親子が、古賀先生が布教に出ます、そう言う一つ、元手がなからにゃ人は助かりません。そして、三日位の痛みぢゃないす。はあー、こりゃ元手が出来よると思うたら、有り難い。私はその有り難いと思う心がおかげの元のなるのです。皆さんの場合でもそうです、今は難儀である、苦労であるけれどもです、今こそ、あの世にも持っていかれる、この世にも残しておけれると言うようなご信心、お徳を受けておるのだと、こう思うたら有り難うなって来る。
昨日、北野の福島さんが頂いておられるお知らせなんかもそうです。  今いろいろ、内外ともに修行がある、まあー、その修行の為にも、不平不足がでるわけです。福島さん、朝参りをさして頂いて、もう朝のご祈念前に参って来て、一生懸命そのふにしがあっとる。帰ると奥さんが悔やまれる。折角、椛目で頂いてきても、また、水を差される。
それから二、三日前、兎に角お前もよう親先生から、その理由を聞かせてもろうてから、そのご理解でも頂いてからち言うてから、参ってみえられた中村さんの話を聞き、野口さんの話を聞き、そして私の話も聞かせて頂いておるうちに、今までの不平不足を言うておった事がばからしくなって来た。スッキリして来た。今日、その事を、福島さん出て見えて、二度目のお参りの時でした。夕べ出て見えてからその事のお礼が、お届けがございました。
家内が心を、おかげを頂いてからと、そんなお届け、そう言う内容でご祈念をされている時に頂かれたそのお知らせですね、一升枡を二つ頂かれたと、枡です。私、それを頂いてから有り難いなーとこう思うです。
まあ、枡を二つですから益々繁盛と言う事でしょうけどね。大体の事は、けれども一升枡を二つと言うことはです、いよいよ益々繁盛の今土台です。枡ですから、受け物がでけておるんだと、しかも、一升がこの世であり、一升があの世と言う信心させてもらえばです、誰でも受けられると言うとこのお徳です。私は益々繁盛のおかげになって行かないかんと思うです。
一升がこの世でも、この世で一升と言う事、あの世の事はまた次の一升でしょう。この世にも残しておけれる、あの世にも持っていけれる受けものが、今こそ夫婦のそうした信心によって出けて行くと、ただ難儀、苦労のとこを通るだけでおかげになると言うのじゃないと、通るとこ通りゃおかげになると言うのじゃないと、通るとこを通らして頂くけども、そこを信心で通らせていただいておかげになるのです。ただ苦しいとこ通るだけじゃおかげにならんです。いやお徳にはならんです。
福島さん達夫婦のばあいです、それも不平不足言わにゃおれない事柄の中に不平不足が出らんでいいようになったそこを、苦しかろうけれども信心で頂かしてもらう、しかもほのぼのとしてです、あの世にも持っていけ、この世にも残しておけれるようなおかげ、言うなら益々繁盛のです、おかげいただける土台が、今こそ出けておるんだと、所謂、元手が出けておるんだと思ったら元気も出りゃ有り難くもある。信心させてもらったら、もう目先の事考えちゃいかん。昨日、私、お芝居の本を見させて頂きよりましたら坂東光五郎さんと言う人が書いておる物の中に、あちらのお父さんがまだ今の光五郎さんが巳の助と言いよった時代、お父さんが光五郎言いよった、なかなか踊りの名人です。父が亡くなる時、その前に最後の舞台が その踊りです。
ちょっと私質問致しましたけども、仙人の踊りなんです。仙人の師匠と弟子の踊りなんです、言わば、踊りが仙人の踊りですからね、普通の人間の踊りと目の付け所が違わなければいけんと、えらい難しい事を言うと、もうお前の踊りはなっとらんとこう言うわけなんですね。それでその、この目の付け所はどこにつけるんかと言うと、天竺の外を見れと父親が言うたち、言うわけなんです。所謂、踊りよって目しなをいたしますよね、それをどこんとこを見たらその良かろうぢゃろうかち、そのお父さんに聞いたなら、仙人の踊りだからね、もう、天竺の外を眺めないかんち。その踊りの後でです、写真が出けて来た。私のは、まあ言うなら百里か二百里か向こうの方ば見とるという感じだった。ところが、父の目付きだけは確かに、こう言う目付きが天竺の外を眺めとるとじゃろうと言うような目付けをしておるには、驚いたと言うような事が書いてございます。
私共はいつもですね、その、神様の心を自分達の心ではなくてですね、神様の心を想い、見なければいかんです。
現在、自分達の事、自分達の事だけを眺めておる、こう言うような事の向こうにはです、神様の心の深い想いがあると言う事。深い神様の思いを判り、見なければ、福島さんの頂いているそれじゃないですけども、あの世にも持って行けれると言うようなおかげが、今こそ頂けておるんだと言う事になってまいります時にです、私は本当の信心ができるのじゃないだろうかと。稽古とは、そういう事を稽古しないかん。要は現実の問題をもって稽古させてもらわないけん。現実の問題だけで、目の前は真っ黒になってしまう。不平不足になってしまう。ここは一つ、折角おかげを頂くのですからね、成る程、現実の問題もおかげにならなければなりません。けれども、それとても、田代さんのお話じゃないけれども、本当にその気にならせて頂いたら、このお祭りを境におかげになるのじゃなくて、もう、前日から神様の働きを見たり感じたりしておられると言うようなおかげ、それには、手紙にも書いたおられますように、一言の教えが、どのような場合でも生きておらなければだめだと言う事。難儀な事を通り抜けただけじゃなくて、難儀があるけれども、これが一件よりも十件ほうちさせて頂きよる時だ思うたら、元気が出るとしかも、その難儀があの世にも持って行かれ、この世にも残しておけれると言うようなおかげ。言うならば、益々繁盛のおかげが頂けれる土台が、今こそ出けておると言うこと。成る程、三日間位、四日位の歯痛で休んで、さあー医者に行かなならん、さあー薬と言や元手は出来やしません。
こう言う難儀なとき、私はこう言う信心で、こう言うおかげを頂いたと言う元手が出けたら、どれだけたくさんの人がその元手によって助かるやらわからん。今こそ元手が出けておると思うたら、その痛い痒いも又有り難い、それとても目先の事を思わずにです、神様の心の奥の方を覗かせてもらう信心。神様の心の奥を覗かせてらう奥が判らしてもらう、奥を感じさせて貰うというような信心じゃないと、信心が浅いものになってくる。
おかげも、だから浅いに事になって来る。どうぞ一つ大きなおかげを頂かして頂くためにもね、そういう、目先の事だけじゃなくてから、現実の問題を通してです、神様の心の奥の方を判らしてもらうような信心をさせて頂きたいと思いますね。                            「おかげ頂きました」